1.国立大学の課題
大学教授生活6年間のうち、評議員を1年半、学長補佐・副学長を3年間勤め、国立大学(もしかすると日本の大学)の弊害を骨身に沁みるほど痛感しました。もし、学内行政に関わらないように身を処していたら、もっと色々な仕事ができたはずと残念でなりませんが、改革の必要性を実感したという意味では貴重な経験をしたといえるかも知れません。
T. 転換期を迎えた国立大学(講演要旨)
1.
危機に直面している地方国立大学
2.
大学における教育改革の必要性
3.
「研究」の見直し
4.
地域との関係の見直し
5.
大学における意思決定、マネージメントの見直し
U. 大学改革の必要性と矛盾
1.
[組織としての大学]の矛盾
2.
守旧的体質の克服と教授会自治の見直し
3.
外部資金獲得以外の業績の評価
2. 今日の教育をめぐる課題
学校教育をめぐる矛盾とその克服方策
T.
転換期を迎えた国立大学(講演要旨)
群馬大学副学長 稲 葉 清 毅
去る平成13年4月3日、新規採用教官を対象に下記のような講演を行いました。ご承知のように、国立大学が極めて厳しい状況におかれ、その在り方を巡って様々な議論が展開されている今日、学内の皆様方にも、是非参考にしていただきたいと存ずる次第です。なお、本要旨に関連する、ご質問、ご意見、ご提案等がございましたら、忌憚なく私までお寄せ下されば幸いです。
T.危機に直面している地方国立大学
新たに群馬大学の教官に採用された皆様には、まず、おめでとうございますと申し上げたいところですが、国立大学は今大変な危機に直面しており、沈み行くタイタニック号にもたとえられているほどで、素直に喜びばかりは申し上げられない状況です。
まず、避け難いのは経営形態の変更です。現在、文部省に置かれた会議で、独立行政法人化等に向けての内容が検討されていますが、今年度中には結論が出て、早ければ来年度内にも法案が提出される段取りになっています。どんな内容になるかは、現時点では明らかになっていませんが、はっきりしていることは、これまでの護送船団方式、これは様々な船が集団で移動する際に、最も性能の悪い、遅い船に合わせて航行することをいいますが、そんな時代が終わりを告げ、厳しい競争的環境に置かれることになることです。
国立大学の独立行政法人化は行政改革の一環として出てきた議論です。このため、国立大学がとばっちりを食ったという見解もあるようですが、ここ30数年の間、一般の国家公務員がどんどん削減されているのに、国立大学の定員は大幅に増加し、国家公務員全体に占める割合が極めて高くなってしまいました。後述のように大学に対する需要が激変していることと考え合わせると、総定員法の枠内に止まる限り、国立大学に大幅な定員削減が求められることは避け難くなってしまったわけです。また、行政改革を巡る議論の中には、民間でできることは極力民間に任せ、行政の守備範囲を減らすべきだという視点がありますが、これに対して大学は国が経営すべきだという議論は中々成り立ちにくいという事情もあります。
しかしながら、経営形態の変更よりもっと厳しい環境は、少子化の進行つまり18歳人口の減少です。付図に示すように、18歳人口は10年前の約200万人強をピークに右下がりに転じ、現時点では約150万人、10年後には約120万人になると推定されています。その後は、また、増加するという楽観論を聞くことがあります。つまり団塊の世代の孫たちが進学適齢期を迎える2020年前後には、また、増えるというのですが、その後はさらに現象の一途を辿ります。
これまで、一般の国家公務員が厳しい定員削減を強いられたのに、国立大学が増員となってきた背景には、18歳人口の増加と進学率の上昇がありました。しかし、それが減少に転じ、その上進学率の上昇が頭打ちになったことは、大学にとって極めて厳しい環境になったことを意味します。
ところで、こう申し上げますと、20%程度ならと思われる方があるかも知れませんが、私たちへの影響ということになりますと、そんな数字では納まりません。何故なら、どんなに受験生が減っても、旧帝大等の有名校の志望がそれほど減るとは思われないからです。その上、一部の私立大学ではそれこそ死に物狂いになって需要を開拓し、受験生の獲得競争を展開することが予想されます。現に、たとえば実務的な資格がとれることを売り物にしている大学などは、これまでのブランドにかかわらず相当な受験生を集めています。安くて良い品を売るユニクロがデパートやスーパーとの競争に打ち勝ったように、若者のハートを捉えた専門学校が虚名の上にあぐらをかいている中小大学を蹴散らすといった展開さえ予想されます。これらが地方の国立大学にとって最悪のシナリオで、受験生が劇的に減少することになれば、縮小、統廃合は免れないでしょう。
私たちには、もう一つの暗い見通しがあります。近年の社会構造の変化に伴い、群馬県はもはや独立の社会経済的圏域とはいえず、首都圏の一部に組み込まれつつあるということです。今でも、いわゆる東毛は東京を向いていますが、高崎や前橋でさえその傾向が強まっています。元気のいい若者達は、今でも東京を向いていますが、この傾向はますます続くでしょう。私は高崎に住んでいますが、最近、駅の近くにできる大きなビルは駐車場ばかりです。昔のように東京に移り住まなくても、パーク・アンド・ライド方式で東京で活躍できるのです。
2〜30年後、果たして都道府県という制度が残っているか、私は個人的には疑問をもっています。仮に制度は残ったとしても、社会・経済的には東京のベッドタウン化することは避けられないのではないでしょうか。そうならないように、私たちも地域の方々と一緒に頑張らなくてはなりませんが、いずれにしても、群馬県唯一の国立大学、総合大学というキャッチフレーズの有効期限が切れる日は遠くありません。
このような三重苦とでもいうべき環境ですから、皆様に気を引き締めていただきたいとあえてこんな話をさせていただいています。いずれにしても、現状に安住することは座して死を待つことです。
2.大学における教育改革の必要性
このような悪夢の責任を国の財政難と少子化、地域構造の変化だけに転嫁するわけにもいかないでしょう。私たち大学の側にも問題があるのではないか、戦後50年にわたって無風状態に置かれてきた国立大学が、いわば制度疲労し、社会の要請と乖離した教育が行われ、これに対して国民の不満と不信が累積していることについても、真摯に反省が必要と思います。
大学の機能は大きく分けると教育と研究ですが、このうち特に評判が悪いのは『教育』のようです。まず、教育の体系と内容が社会のニーズに適合していないと指摘されています。これからのわが国にとって最も必要とされるのは、独創性があり、問題の発見と解決の能力のある人材であると、かなり昔から指摘を受けながら、大学受験を頂点とする知識偏重型の教育が行われ続け、これが全く改善されていないばかりか、大学においてすら一部に知識重視型の教育が行われているという指摘です。その結果、わが国の大学の卒業生諸外国に比べ、智恵や教養の面で劣っているといわれています。
本来は優秀なはずの日本の子供たちが、国際競争力のある立派な成人として育て上げられていないことの原因は様々でしょうが、教育体系の最上位に位置する大学の責任は免れないと思います。長らく大学の教官には、自分たちは本来は研究者であって、教育は片手間にやっているという考え方があったようです。大学における任用、昇任の基準が論文の数に置かれており、教育面での貢献が考慮されていないのですから、当然といえば当然でしょうが、研究者として一流であれば、学生は後からついてくる、教官は後ろ姿で教えればいいという思い上がりもあったと思います。
昔のように、大学進学率が10%程度で、しかも若者に進取の気象が溢れていた時代にはそれで良かったのかも知れませんが、半数の若者が進学し、その上覇気が失せてしまった今日の大学生は、気構えの面では昔の中学生なみといえるかも知れません。そういった学生の気質の変化を考えると、大学がもっと教育に本腰を入れなければならない、そんな時代になっていると思います。
ここにも護送船団方式の悪影響が影をさしています。大学における教育・研究の在り方、あるいはその運営を巡っては、大学審議会から累次の答申が出されております。しかし、制度面のことがら、たとえば学長の補佐体制の強化とか、運営に外部の意見を取り入れるといった仕組みは着々と整備されているのですが、肝腎のソフト面といいますか、教育の中身の改善は日暮れて道遠しといった状況です。
たとえば、入学生の選抜の方法、教育の内容等については抜本的な見直しが求められています。カリキュラムについても教官のためのものから、学生のためのものに改善せよという声が強い。しかし、改善はあまりも遅くかつ微温的です。部分的には様々な改善が試みられ、それなりの効果を上げていますが、こんなペースでは間に合わない。
皆さん、総論では何とかしなければならないと感じていると思います。しかし、各論になると踏み出せない。その理由は、まず、よそも一緒にやるならいいが、自分のところだけ変わったことをするのはリスクが大きいというためらいでしょう。また、改革によって既得権が侵害されることに対する抵抗感もあると推測されます。しかし、ぬるま湯に浸ったような状態で手を拱いていれば、地方国立大学全体が地盤沈下していきます。いずれにしても、私たち大学の教官は教育のプロにならなければならない。研究の片手間に教育という古き良き時代は終ったと考えてください。学生にとって魅力ある教育はどういうものか、地方部だけでなく、東京に住む若者たちにも群馬大学に行きたいと思わせるためにはどうしたらいいかを、是非考えていただきたいと思います。
3.『研究』の見直し
研究面については、教育ほど評判は悪くないと思います。これは国立大学全体の話ですが、わが群馬大学も科学研究費の配分などで見る限り、ある程度立派な実績をあげていると評価できます。しかし、それで安心するわけにもいきません。
わが国の大学全体が、たとえば論文数などで評価すれば、世界の上位になるようですが、それでは独創的で画期的な成果はと問われれば胸を張れない面があるようです。大学の話を離れますが、特許などにも似たような傾向があるようで、申請件数、登録件数で見る限り、日本はアメリカの約2倍でダントツですが、それでは基本的、画期的な大発明はというとあまり多くない。外国で行われた大発明の周辺分野で拾えるものを拾っているという傾向があるようですが、研究にもそれとそんな側面があるのではないでしょうか。
また、人文、社会科学系の分野においては、昔から『横文字を縦に直す』という表現があったように、外国の研究成果や学説、あるいは外国の制度や実態を日本に紹介したり、応用したりすることが重要な研究であると見做されていた傾向があるようです。それらが無意味だというつもりはありませんが、これからのわが国の大学に求められているのは、国際的に通用する独創的な研究と、情報の発信であるという意見もあります。
そのような画期的な成果を上げて行くためには、多数の大学、多数の学部、学科で分散的に研究が行われている現状には限界があり、もっと重点的、集中的に行われるべきだという議論が強まる可能性があります。もちろん、草の根レベルでの研究の重要性や多様な価値観、方法論に基づく研究の併存を否定するものではありませんが、少なくとも既存のディシプリンに拘泥した研究のセクショナリズムは非難されてもやむを得ないでしょう。また、内容の質を問わない件数主義による論文の評価も、やがて社会が容認しなくなると思います。
群馬大学においては、『細分化から総合化へ』を旗印に、共同研究・学際的研究を推奨することを基本的なポリシーとしており、現在、4つの学部、研究科にまたがった人間支援科学という独立研究科の設置を目指しています。
いずれにしても、これからの時代においては、特色ある研究分野に重点を指向し、独創的で国際的に発信できる成果を挙げていかなければ大きな評価は得られないでしょう。既に、一部の学部・部局では、全国的な研究活動の中心となるCOEを目指して頑張っていますが、COEないしは准COE化とならない限り、研究重点大学として生き残っていくことは困難と思います。
4.地域との関係の見直し
大学は地域の知的活動の中心であり、様々な知的資源が集積しています。これらの資源を地域社会のために活用して行く地域連携活動は、教育、研究に次ぐ、大学の第三の機能といわれています。
その一は、社会教育です。近年の社会経済活動の高度化、国際化、科学技術の進歩、国民のライフサイクルの変化等に伴い、中高年層の知的関心はかつてとは比べものにならないほど大きくなっています。また、職業的専門分野におきましても、最新の知見に基づくリカレント、再教育への需要が増大しています。さらに、将来の科学や学術の担い手たる小中高校生等に学問の面白さを教えることも大事になっています。
その二は共同研究です。行政や産業界は、乗り越えなければならない、様々な課題や困難に直面しており、情報や頭脳が集積している大学の協力を求めています。一方、学問の分野でも、新たな課題を発見したり、仮説や解決方策の有効性を検証し、新たな地平を開くため、その裾野を広げ、実務家と協力することの必要性が認識されています。
群馬大学におきましても、従来から、この種の活動に熱心には取り組んでおり、様々な成果をあげています。しかしながら、これらの活動も、ややもすれば、研究室や教官個人単位で行われている傾向が強く、地域の皆様に広く利用されているとは言い難い状況にあります。大学には『一歩下がって、一段高く』という傾向があるのではないかと指摘されているのは、このためだと思われます。
これからは、この種の活動をさらに活発に行う必要があります。まして、地域構造の変動が続き、群馬地域が首都圏の大波に吸収されようとしている今日、この流れに抗し、地域の文化と独自性を守るためには大学のもつこの機能を一層活発化する必要があります。
このような観点から、今年4月から地域連携推進室を設置しました。各学部・学科、研究室、教官の地域活動はこれまで通り、自主的に活発にやっていただく。地域連携推進室は、それらの活動に関する情報とメッセージの交換の場にすること、学外の一般の方で、どこに相談していいか分からない方の窓口とすること、学部をまたがる活動等、新たな企画を行うことなどの役割を果たしたいと考えています。具体的には、サテライトの設置、出前教室等、新しい機軸の地域連携活動を活発化して行きたいと考えています。
一方、産学連携活動に関しては地域共同研究センターを中心に活動を行っています。その活発化を図るとともに、今後はTLOの機能形成を目指して行きたいと考えています。
5.大学における意思決定、マネージメントの改善
このような様々な改革努力が結実し、魅力ある群馬大学を実現して行くためには、意思決定やマネージメントの改善も不可欠です。
これは本学だけの問題ではありませんが、大学における諸活動について、個々の教官が一所懸命努力しているにもかかわらず、必ずしも高い社会的評価が得られない原因の一つとして、これらの分野に大きな欠陥があることが指摘されています。また、大学には、組織として教育、研究あるいは地域連携活動を進めて行くという視点と戦略が欠けているともいわれています。それぞれの教官がご自分の信念と考え方を中心に行動されることは、学問の自由、主体性の確保という観点では重要なことでしょうが、あまりにそれに固執し、コンセンサスが形成できなければ何もしないということになれば、全体としての効率と効果を低下させます。
私はもともとの大学人ではなく、中央省庁、いわゆる霞ヶ関から来た人間ですから、特に強く感じることかも知れませんが、教官の方々はご自分の研究の分野では立派な方々であっても、やや視野が狭く、社会、世間の目よりご自分の判断を優先させる傾向が見られます。独善的といいますか、夜郎自大的なものの考え方に接することも稀ではありません。何よりも驚き、大きなカルチャーショックを受けたことは、企画つまり新しいことを考えるという機能があまりにも軽視され、内規や前例が極端に重視されていることでした。そう申し上げると、お役所から来たくせにと怪訝な顔をされるのですが、規則や前例を金科玉条としているのは市町村の窓口とかお巡りさんレベルの話で、それすら今日では変わりつつあります。
中央省庁や民間の企業では、社会経済環境が変化する中で、いかに使命や目的を効果的、効率的に実現するかが至上の課題になっていますから、規則や前例に拘っているわけにはいきません。もちろん無視するわけにもいきませんが、現実の課題と衝突する場合には、いかにそれを見直していくかが議論の中心になるわけです。そこで中間管理職以上の人が前例などをもちだせば、無能か職務怠慢か、いずれにしてもそのポストにふさわしくないと評価されてしまいます。
ところが、知性と教養の府であるはずの大学で、考えることを放棄したように、規則と前例が大手をふるつています。教官が無能のはずはありませんから、世間からは、既得権を守るために、意図的にやっているのではないかと疑いの眼が向けられてしまいます。
大学には行政や企業と異なり、時の流れに逆らっても守るべきものは守るという大事な機能があることはいうまでもありません。しかし、それは学問、研究の内容であって、意思決定やマネージメントの方法ではありません。本当に大学と社会にとっての利益を守り、それを実現して行くためには、戦略的な企画は不可欠で、それなくして厳しい競争的環境の中で勝ち残り、名誉ある地位を確立して行くことは不可能と考えます。皆さんも明日からは、教授会のメンバーとして意思決定に参画して行かれるわけですが、現在、地方国立大学が置かれている危機的状況をご認識いただき、大学の使命と目的を基本において、戦略的で建設的な論議をしていっていただきたいと切望します。また、コンセンサスを重視することは平時におきましては重要なことがらですが、いわば非常事態におきましてはリーダーシップの確立が非常に重要になることも忘れないでいただきたいと思います。
また、大学には従来からマネージメントという観念に欠ける傾向がありましたが、特に教育や地域連携の分野では、教官本位に作られた規則や慣行に依存したり、それらを学生等に押し付けるのではなく、顧客である学生や地域社会、国民の満足を極大にすることを目的に運営全般を見直して行くことも大事な課題と考えます。
いずれにしても、そう遠くない将来に大きな危機がやってくることは避けられないと予測しています。大学は図体も慣性モメントもかなり大きいので、その時になって慌てて方向転換を図っても間に合わないと思います。この困難な時代を生き残り、勝ち抜いていくためには、研究の分野なら全国的にエミネントな存在になること、教育の分野なら大勢の学生を引き付けられる魅力ある存在になることが不可欠と申し上げて私の話を締めくくらせていただきます。
大学改革の必要性と矛盾 群馬大学副学長
稲 葉 清 毅
1.「組織としての大学」の矛盾
近年の高等教育の改革の方向は、「個性輝く大学」「国立大学法人化」「トップ30の育成」等のキーワードに表されるように、「組織としての大学」の充実強化が中心的課題とされているように見える。なるほど、教育面及び一部の(主として装置系の)学問分野においては、個々の大学の充実強化が緊急の課題と考えられるが、その一方で、この路線が過度に強調されることについては、やや疑問も感じられる。
その理由は、第一に、社会経済の発展動向との乖離である。今日、国際化、情報化の進展は著しく、近い将来、知の創造、伝達、実現を含む諸分野において、ネットワーク社会の到来が予想される中で、ハードな組織・装置としての大学の充実・強化を図り、競い合わせることの妥当性には、やや違和感を感じる。たとえば、フィールド系の学問分野等においては、研究者相互及び社会との間の開かれたネットワークが研究の主たる担い手であるべきであるし、装置系の分野においても、これまで大学共同利用施設の充実に力が注がれてきたことと矛盾するのではないだろうか。
第二は、大学教官の帰属意識の問題である。一般に大学の教官は、「組織としての大学」よりも、自らの所属する学界に対する帰属意識が強い。これは、その昇進や社会的処遇が、所属する大学によってではなく、学界における評価に左右されるためである。ところで、それぞれの学界は、タテワリでややもすれば閉鎖的な体質をもっており、いわゆる実力者が強い影響力をもっているように見える。一般に、これら実力者は有力大学に所属していることが多いが、このような環境の下で「大学間の競争」が行われた場合、たとえば、運営費交付金や外部資金の配分や獲得に際して、適切なマーケットメカニズムが存在せず、結局は、各学界における実力者の意向が強く反映される可能性が強いことなどを勘案すると、教官たちは自らが所属する「組織としての大学」に献身するよりも、これまで以上に学界指向を強め、結果的に有力大学を中心に知的資源が再編成されるような事態を招きかねない。
このことは、知の創造・伝達・実現といった活動の効率化と国際競争力の強化をもたらす可能性もあるが、その反面、既存の強力な学界の既得権によって、いわば「知の寡占」が生じ、真に独創的な研究や学際的な学問分野が冷遇される可能性がかなり強い。今後、大学のレーティングや運営費交付金の算定に際して、これら有力研究者以外の真の第三者の評価を試みる等、「知の寡占」に風穴を空けるような施策の導入を望みたい。
2.守旧的体質の克服と教授会自治の見直し
大学の改革を阻む大きな原因の一つは、教官及び事務方の双方がもつ守旧的な体質である。もともとわが国の教育全体が、カリキュラムや免許制度に守られた既得権産業になっているような観があるが、大学においてもその傾向は免れず、教官は一般に学生や社会等のデマンドサイドからの要請よりも、出自の学問分野の権益の保全に熱心で、入試やカリキュラムの改革等については驚くほど消極的であり、さらには、社会的影響力を用いて、公務員試験等や資格制度にも影響を及ぼしている。
一部の教官たちが好んで口にする「大学の自治」も、その世間的イメージとは裏腹に、ギルド的な既得権を擁護、維持するための口実となっているように見える。彼らは、国の末端機関として、様々な法令や通達にがんじがらめにされていると称しながら、それを口実として、必要以上に法規や前例等を尊重し、無くもがなの内規を定め、繁文縟礼的な手続を重視している。
社会経済の変化の著しい今日、教育や地域との関係等をめぐって、大学には様々な社会的要請が生じている。あるいは、これまでの運営を変えて欲しいと期待する内外の意見も強い。しかし、それらの課題に対して、一般の教官や職員は消極的な対応に終始し、「前例がないから」、「他の国立大学でやっていないから」という理由で、新しい事業や教育の展開に消極的になりがちである。このような知性の府としては理解に苦しむ行動原理も、その底に既得権の擁護があると考えれば納得できる。
大学が組織として社会的な機能を発揮できなければ、実力とエネルギーのある教官たちは、それぞれの学界に活躍の場を求めるか、大学教官という社会的信用を背景に、マスコミ、行政機関、企業等に影響力を及ぼし、あるいは住民運動等のリーダー等として活躍の場を求める結果になるのはやむをえない。一方、大部分の教官は、ホンネの部分では、自分の業績になる「研究」が中心で、教育や対外活動は二の次と考えていることもあって、研究室の壁の中に閉じこもり、自らの良心と信念に従った教育・研究活動を展開することによって、不毛で非生産的な論議の場である教授会自治の泥沼に入ることを避けようとする。このため、教授会はますます目的意識を欠いた既得権亡者や形式主義者の楽園となるという悪循環に陥る傾向があることは、あちこちで耳にする。
教授会による自治は、教特法の改正等によって、制度的には若干の改善を見たものの、現場における認識はほとんど改まっていないし、様々な形式主義も依然として健在である。おそらく、国立大学法人化によって、現場にある程度の自由がもたらされたとしても、半ば強制的にその意識を改め、その運営を変えるための仕組みを導入しなければ自浄作用は働かず、多様で個性輝く大学の創造と再生は極めて困難になろう。大学改革に際して、この点の論議をさらに尽くす必要があろう。
3.外部資金獲得以外の業績の評価
今次の改革を含め、近年、外部資金の獲得額が多い教官が、優れた教官であるという風潮が生じつつある。このため、諸大学を通じ、教官たちは研究に必要だからというよりも、ステータスシンボルとして外部資金の獲得競争に汗をかこうという雰囲気が生じつつある。このことは、資金の使用効率を下げるばかりでなく、外部資金を獲得しやすい分野とそうでない分野との間の評価に不当な格差が生じるおそれもあるので、資金獲得以外の業績評価のため何らかの工夫が望まれる
。
自己表現不全症を生む管理教育
目的よりも手続、成果よりも管理
総務庁を退職した後、JICA(国際協力事業団)の専門家を経て現職についた。2年足らずの間に公務員から民間人へ、そして国立大学の教官へと様々な立場の経験ができた。霞ヶ関にいると世間が分からなくなる。日頃つきあっていた各省庁の幹部は、縄張りへのこだわりを別にすれば、その思考は柔軟で弾力的だった。だから彼らの影響下にある組織もある程度は常識的に運営されていると思うと大間違いで、末端では昔ながらの形式主義が大手をふるっている。
総務庁では行政改革や行政運営の改善に携わってきた。だから行政に硬直性や非合理性が残っているなら、自らの責任も免れない。臨調以来、財政再建、規制緩和、地方分権、行政の透明性の確保などに忙しく、この種の問題に十分取り組めなかったことが心残りでならない。
JICAは特殊法人には珍しく活気があり、熱心な若手職員も多い。だから悪口めいたことはいいたくないが、おそらく彼らも古くさいしきたりや煩瑣な事務手続の犠牲者に違いないと考え、敢えてあげつらうことを許してもらおう。
専門家の仕事は相手国への協力である。しかし、そのエネルギーの相当部分は様式化された報告書や事務費の経理のために費される。大方の専門家は一人親方だから、誰が読むのか分からない内向きで内容の乏しい作業に手間暇をかけることに空しさを感じている。原則として派遣先の国から出てはいけない、週末に隣の国へ行くにも許可がいるという制度もいただけない。協力を依頼した民間人を島流し扱いにするセンスが理解できない。休暇にしても、着任の時期によっては相手側の夏休みに合わせられないのは非効率である。 自治の砦、大学は居心地のいいところで、人身の制約などはないが、内規の類がやたらに多い。現実に直面している人達の判断よりも、昔、別の事情の下で作なれた規則や前例が優先されるのには驚いた。その上、行政機関としての会計手続も適用されるから、私立の先生と違って一冊の本も自由に買えない。もちろん頼めばいつかは手に入るが、必要な時に間に合わないからほとんど自弁になる。研究費の用途はかなり自由だが、旅費には当てられない。その旅費は年間数万円、学会が関西で開催されればこれまた自前で行くしかない。何故わが国では旅行というと厳格に規制されるのか、社会病理学的見地から研究が必要な課題であろう。それでも貧乏な文科系の教官はまだいい。多額の経費を必要とする理工系の教官に、本来の研究よりも経理の事務手続に神経を擦り減らさせているようでは、研究の活性化などは実現できまい。
新設学部だから自由闊達に教育ができると考えたのも大間違いだった。学部完成までの4年間はいわば保護観察期間で、予め定められた筋書き通りに運営されなければならないという。スタートの大事な時期だからこそ日々創意をこらして試行錯誤を重ねるべきなのに、本末転倒も甚だしい。文部省の幹部はいいことはフライングしてもやるべきだと語ったそうだが、現場にはそんな勇気はない。JICAと共通しているのは、諸規則を守ることが優先され、目的の効果的な達成は問われていないことである。
異常なムラ社会に馴染ませる管理教育
もっと頭が痛いのが学生達の風潮である。元気がないというより、そもそも議論をしない。だから対話型、討論型の講義を試みても構想倒れに終わり、ひたすら知識の切り売りに終わってしまう。問題意識や自己主張がないわけではない。紙を配って書かせたり、一対一になればユニークな着眼も見せるし、一瞬の切れ味ものぞかせる。しかし、集団の中に入ると、周囲に気兼ねし自分を制御をしている様子がありありとうかがわれる。大学のカリキュラムも必修科目が多かったり、専門科目と教養科目の区別が残っているなど、教育の多様化、個性化が叫ばれている割りには変わり映えしないが、自由の価値と自分たちの潜在的な可能性に気づいていない学生達からの反発は意外に少ない。
若い彼らを『後天的自己主張機能不全症候群』に陥らせている原因は、温室育ちの植物に似て、厳しい管理の中で甘やかされて育って来たからであろう。物質的には何不自由しない反面、偏差値競争に追われ、細かな校則に支配され、集団の秩序を乱したり、突出することがないよう無言の圧力が加わる。裏切れば教師からの処罰や仲間からのいじめが待っている。そんな雰囲気の中で育てば、自ら学び自ら考えるよりも集団の和や空気が尊重されてしまうのはやむを得ない。
管理教育の恐ろしさは犠牲者をやがて加害者に変えてしまうことである。体育会系のサークルで先輩から受けたしごきを後輩に申し送るように、不条理な習慣や掟を改めようとするよりも、それを守らせる側の一味にしてしまう。わが国には、行政機関、企業、各種団体等様々な閉鎖的なムラがあり、それぞれが独特の価値観としきたりをもっている。しかし、個人よりも集団、自由よりも秩序を優先する習慣が身についてしまうと、いつの間にかそれらの非常識さ、異様さを感じとる能力すら失われる。日本の常識は世界の非常識という言葉があるが、ムラの常識は世間の非常識ともいいかえられる。ムラの部分に『お役所』とか『企業』とか、あるいはそれらの固有名詞をあてはめて見れば、たいてい通用するのは困ったことだ。悪名高い規制を公益のため必要だと本気で主張する官僚、見通しのいい交差点の物陰に隠れ、一時停止違反を取り締まるお巡りさん、長い付き合いのある顧客に対して形式的な資料を求める銀行員、手続き的には合法な巨額の無駄遣いはそっちのけにして、カラ出張などいじましい手続き違反の糾弾に血道を上げる市民団体などはこのようにして生まれた。
知的怠慢によって損なわれる創造性とチャレンジ精神
規則と管理を過度に重んじる風潮がはびこる理由は、それが最もイージーな道だからである。多彩な現実から目を背け、新たなアイディアの生みの苦しみも避け、皆で思考を停止して、昔誰かが決めたことに従っていれば、これ以上楽なことはない。天下泰平の世ならそれでも良かった。伝統や慣習の中には先人達の経験と智恵が積み重ねられてきた面もあるからである。しかし、国際化、情報化の進行などにより、パラダイムが大きく変換している今日、国民や顧客の新たなニーズへの積極的な対応、新しい科学技術・社会システムの開発などのため、創造性とチャレンジ精神を発揮しようとしている人達を、精神活動が苦手な怠惰な人達が規則や前例を武器に妨害するのは、国賊的行為にすら見える。
法令・規則については一般に大きな誤解もある。たとえば行政において法規や手続の厳格な運用が求められる理由は、国民の権利を守り、不当な義務を免れさせるためである。人間としてのモラル、左側通行のような共通の約束ごとも尊重されるべきものだろう。しかしながら、法規の大部分は行政の都合や、内部の事務処理のために作られたものであり、コレステロールや水アカのように、常に見直して洗い流さなければ、組織のパイプを詰まらせ、その機能を硬直化させてしまう面をもっている。
法規や管理優先主義のもう一つの弊害は、第一印象とは逆に、腐敗、堕落の温床となることである。複雑で膨大なきまりをすべて守っていたら仕事が進まないし、相互に矛盾する結果も生じるから、弾力的な運用・さじ加減が必要になるが、そうなれば抜け道に通じたり顔が利くものが得をして、正直者がバカを見る結果を招く。それに注意深く観察すれば、大抵の規則には、既得権の保護、集団の秩序や権威の維持など、社会全体の利益に反するウラの目的をもっている。さらに、暗礁がなくなれば水先案内人の仕事が失くなるから、敢えて除去しなかったり、場合によっては人工の暗礁を沈めまくっているという面さえある。非効率を絵にかいたような予算会計制度やクレイジーな校則が存在するのは、そう考えなければ説明ができない。多様で柔軟なだけでなく、公正で透明な社会を実現するためにも、法規に基づく管理、監督は最小限にし、現場の管理者を信じて活動の自由度を高め、結果を評価してフィードバックするシステムに切り替える必要性は高い。
管理社会から脱却するための教育改革
わが国全体を覆い尽くし、社会を息詰まらせ豊かな人間性の発揮を損なっている規制と管理による集団主義を打破するため、教育の分野における改革案を提言してみたい。
第一に、閉鎖的人事集団の解消が必要である。わが国特有のムラ社会的体質こそ、非常識で異様なしきたりや掟を温存し、権威や序列、既得権を正当化し、個性と創造性の芽を摘むなど、諸悪の根源になっているからである。中でも学校は教員という他のムラとの交流がない特殊な人たちで構成されている上、相手にするのは年端もいかない子供だから、典型的な閉鎖社会になってしまう。その弊害を少しでも軽減するためには、たとえば部外から血を入れることが必要であろう。教員資格などの規制を大幅に緩和して、官公庁や民間企業からの転退職者、外国人などをせめて1〜2割でも導入すれば、学校の運営、教育の内容も少しは社会的な常識に近づくのではなかろうか。
第二に、教育の目的意識を明確化し、これに基づく成果の評価制度を確立することが必要である。筆者は教育や研究は行政と同様、広義のサービス業であり、教職員等は社会や国民に対してどのような貢献をしたかを説明する義務があると考えている。その評価は本来は第三者が行う必要があるが、お互いにかばい合いもたれ合うわが国では機能しない面もあるので、まず、担当者自身が具体的な目標とその成果を公表して行くだけでも効果が上がるだろう。
第三に、教職員はもちろん、学生や生徒にもっと国際交流の経験をもたせたい。様々な形で外国人を学校に招いたり、修学旅行の代わりにホームスティを経験させるなどにより、外国の生活慣習にふれれば、異質な文化や生活様式に対する相互理解が進むだけでなく、逆に自分たちの世界こそいかに異質で異様であるかに気づくはずである。
最後に自己主張機能不全症候群の対症療法としては、大学入試に際して口頭試問や集団討論を導入することが考えられる。そうなれば、そのための塾ができ、議論や討論のためのマニュアルが流行ることになろうが、突っ込んだ討論になれば、小論文と違って付け焼き刃では太刀打ちできない。紙に書かれた学生達の文章の行間には、ささやかな自己主張の気分が漂っている。しかし、自閉症的に紙に書いたりメールを交換しているだけでは世の中は変わらない。その思いを実現して行くためには、集団の空気や圧力に屈せず、自分の口で表現するという能力と姿勢が必要であり、そういう習慣が一般化することによって、連鎖反応的な共感を呼び、社会の価値観を大きく変えて行くことが期待されるからである。
(月刊「時評」1997年7月号)
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学校教育の矛盾と克服方策
群馬自治総合研究センター 常任参与 稲葉清毅
はじめに
今日の学校教育は、様々な矛盾と困難に直面しているように見える。たとえば、教育の内容である。わが国は有力な資源ももたなければ、米、欧、ロシア、中国といった超大国でもない。人材・知力だけが唯一の資源であるにもかかわらず、個性と創造力に乏しいマニュアル人間が量産されていることは大変不幸なことであるし、現象的に取りざたされている問題も、学力の低下、いじめ、不登校、学級崩壊、安全の確保等、多岐にわたっている。
筆者は、永年、行政管理庁、総務庁に勤務し、行政のマネージメントと改革に従事した後、群馬大学社会情報学部の教授を務め、昨年4月からは、群馬県が新設した群馬自治総合研究センターの常任参与として、地方自治の推進のための研究と職員研修に携わっている。大学で教壇に立っていたとはいえ、教育の専門家ではない筆者がその問題点や課題をあげつらうことが適切であるかについては自信がないが、囲碁には「傍目(おかめ)八目」という言葉がある。熱心に対局している当事者より、はたで観戦している方が、盤面全体の大局が冷静に見え、八目も先まで手が読めるというものである。
また、昨秋、わが国の行政が大変重い病に冒されているという観点から、「霞ヶ関の正体―国を亡ぼす行政の病―」(晶文社)を上梓したところである。その内容を簡潔に要約すれば、わが国の行政は、筆者がクニ・ムラと名づけた、「霞ヶ関の各省庁を中心として関係業界や族議員、学者等に広がるタテ割りの人事集団」によって支配されており、このことが諸病理の根本的原因になっている。すなわち、本来は現場の実態や国民の思いに基づいて行われるべき行政が、クニ・ムラごとにもっている、独特の理念と価値観、いいかえれば先入観と思い込みに基づいて行われているため、国民のニーズが的確にフィードバックされない。
このため、いわゆる政・官・業の癒着による歪みや腐敗を生じるばかりでなく、費用対効果を無視した非効率を生み、その一方で、クニ・ムラの空気や慣習に強い影響を受ける公務員達は、職務に対する使命感や緊張感を失い、責任感欠乏症、情報隠し・粉飾・虚言癖、臆病風邪などの退廃的な生活習慣病に罹患してしまうというものである。
教育も行政の一環として行われている以上、これらの病から免れ難いのではなかろうか。こうした観点に立って、学校経営の直面する矛盾とその克服方策について、私見を述べて見たい。
1.学校教育をめぐる矛盾
(1) 情報化の進展に伴う教育の空洞化
学校教育が直面する最大の矛盾は、情報化の進展とメディアの多様化に伴って、児童・生徒が外界から受け取る情報が飛躍的に増大し、学校教育の影響力を減殺し続けていることだろう。かつてのメディアは、新聞、雑誌などの活字も、ラジオ放送も、教科書や講演、講話と似た活動であり、さほど大きな魅力はなかった。しかし、1960年代から飛躍的に普及したテレビは、お茶の間に入り込んだ見世物小屋のようなもので、子ども達の眼と心を奪ってしまった。
90年代以降のパソコン・インターネットと携帯電話は、おそらくそれ以上の影響を与え続けている。これらのメディアは、流通する情報量が圧倒的に大きいこと、双方向のシステムであるため、主体的に情報の内容やコミュニケーションの相手を選ぶことができること、子ども部屋などの密室で利用されること、両親や教師達よりも、子ども達の世代の方が適応能力が大きいことなどにより、彼等は、両親や教師が知らない世界において、大量の情報を得るようになった。
しかも、メディアは、社会の公器という表看板とはうらはらに、もともと、スポーツ、セックス、スキャンダルといった3Sを売り物にして発達して来たし、情報技術は、多かれ少なかれ、ポルノ、セックス産業が推進役となって開発されて来たものである。
ところで学校は、子ども達を時間と空間を限って社会から隔離し、「教育」という形で情報を交換するところともいえる。しかし、子ども達が学校で過ごす時間は、週40時間×40週として、年間1,600時間程度に過ぎない。彼等が起きている時間を1日16時間と仮定すれば、情報に晒されている時間は約5,800時間になるが、学校が占める時間はその3割弱に過ぎず、残りの7割強は、娑婆の空気に晒されざるを得ないのである。
このため、昔から、学校教育は、家庭教育、社会教育と三位一体となって機能すべきものといわれて来た。その必要性は今日も変わりない。しかし、家庭は核家族化の進行と、両親、特に父親の出番が少なくなったことに伴って、教育の主役としての自覚と機能を放棄して行った。社会に至っては、個人主義的風潮が蔓延する中で、他人の子どもに口出しすることは要らざるおせっかいと位置づけられた。そういう風潮の中で、7割の生活時間に影響を与える「情報化」は、極めて大きな役割を果たして来たのである。
(2) 受験競争と教育の矛盾
第二の矛盾は教育の目標をめぐるギャップである。教育基本法には「個性豊かな文化の創造を目指す」「実際生活に即し、自発的精神を養う」と書いてあるし、教育関係者も口を開けば、そういう方向を目指すべきだと説いている。しかし、子どもやその母親達を支配している現実的な目標は、いわゆる有名校への入学であり、そのために必要な知識の獲得や試験に際しての応用力の発揮である。
受験競争の弊害はその昔から認識されて来た。筆者が高校生だった50数年前の日記を読み返しても、「こんな無意味なことに貴重な時間を費やして何になるか」と記されている。しかし、とはいうもの、本格的に入試の「傾向と対策」に取り組んだのは、高校3年の夏休み頃からであり、あまり早くから血道をあげていた者は、「ガリ勉」と蔑まれていた。競馬にたとえれば、第四コーナーまでは馬なり、つまり余裕たっぷりに走り、直線勝負で十分に間に合ったのである。
ところが今日では、幼稚園のお受験から戦の火ぶたが切られ、それに応える形で受験産業が発展していった。加えるに安保、全共闘闘争の結果、優れた能力をもちながら社会の中で指定席が得られなかった若者達が塾の講師になり、実績、戦果をあげていったから、受験指導のプロという職業が確立され、その道では素人に過ぎなかった学校の教師よりも大きな社会的信用をかち取ってしまった。
かつては、受験戦争にもそれなりの意義があった。公平なルールとジャッジの下で若者達を競わせ、その勝利者、すなわち自らの能力の証明に成功し、登竜門をくぐり抜けた者を社会的に重く用いて行くというシステムは、血縁やコネがものをいう閉鎖的で不透明な社会構造に風穴を開ける機能を果たしていたからである。たとえ農民や町人、庶民の子として生まれても、勉学の面で才能を認められた者がやがて藩の重臣や政府の高官として出世することは、事業に成功して巨万の富を築くアメリカン・ドリームにも匹敵するジャパニーズ・ドリームであり、近世、近代を通じてわが国が高度に発達した社会経済を築き得た要因の一つになった。
しかし、社会は変わってしまった。わが国はもはや学歴社会ではない。良し悪しは別にして、企業においては終身雇用制度が崩壊し、実力主義、実績主義的人事が行われるようになった。世間では、霞ヶ関すなわち国の各省庁では有名大学出身者が優遇されていると誤解されているようだが、一種試験に合格し本省で採用された者を出身校で差別する風潮はほとんど消えている。有名大学さえ出ていれば出世が保証されるという時代は終わってしまったのである。
このように、既に社会が学歴を重視しなくなったにもかかわらず、受験戦争が一向に収束しないのは何故だろうか。筆者は、そこに学歴のブランド化現象を見出す。シャネルやルイヴィトンといったブランドは、かつてはデザインと品質の証明であった。勿論、今日でもそういう機能は失っていないと思われるが、それ以上にブランド商品を持つこと自体が自己満足の手段となり、ステータス・シンボルになってしまった。
品質やデザインによる競争ならば、後発の企業もいつかは追いつき、追い越すことができる。しかし、相手がシンボルになってしまえば、あまり勝ち目はない。
教育の世界も良く似ている。受験戦争の目指す方向が、社会の必要とする人材の育成であれば、既存の学校教育との間に、少なからぬ共通項を見つけることは可能であろう。しかし、単なるステータスを得るための技術競争ということになってしまえば、その間のギャップは開く一方である。
紙面の関係もあり、あまり立ち入らないが、この種の競争は有名校を目指す受験に止まらない。イチロー、松井、宮里など、わが国のアスリートが世界的に大活躍していることは喜ばしいが、その影響のためか、スポーツ教室なども賑わい、家計と家族に莫大な費用と送迎等にかかわる大きな負担を強いているようだ。それ自体は悪いこととはいえないが、誰でも夢が叶う訳ではない。挫折して、脱落し、大きな傷を負った者の再生は社会一般に持ち込まれる。それ以上に、深刻な問題は、経済的な理由などから塾にもスポーツ教室等にも行けない子ども達の存在である。そういう子どもの方が多数派だった時代には問題はなかったが、少数派になってしまった地域では、家に帰っても遊び相手さえいなくなる。子どもの育て方をめぐる矛盾はこういう面でも大きくなっている。
(3) 教育の内容、目標をめぐる矛盾
クニ・ムラ体制に基づく上意下達型行政の欠陥の一つは、上部機関の方針や指示が変わる都度、現場が理不尽な形で振り回されることである。最近のゆとり教育の導入と、学力の低下を理由とする巻き返しは、その典型的な事例といえる。
もともと、ゆとり教育という発想は、行き過ぎた進学競争、知識偏重教育の結果、わが国の子ども達が独創性と個性を失い、これからの厳しい国際環境の中で、科学技術や文化、産業等の面でトップランナーになり続けるために不安が生じ、教育方針の見直しが必要ではないかという危機意識から出たもののようだ。
しかしその後、学力すなわち読み書きや計算能力の低下問題がクローズアップされ、ゆとり教育に対する批判が噴出した。多くの教育関係者は、学力すなわち知識偏重教育の復活を唱え、歴史の針を元に戻そうと努め、この試みはある程度の成功を収めたように見える。
しかし、筆者は、学力重視派の見解には与しがたい。そもそも、子ども達の知的能力は、本当に低下しているのだろうか。筆者は大学や県の研修機関のスタッフとして多くの若者達と接して来た。大学のかつての同僚などからは、若者の学力、知識水準の低下を憂える声を良く聞いたが、筆者はその都度、反論してきた。彼等は知識に関しては遅れをとっているかも知れないが、逆に私達の世代は、若い頃、コンピュータが扱えたのか、楽器が弾けたのか、おしなべて彼らほど表現力、発表力が豊だったのだろうかと。
どうも、学力の低下を憂える声は、旧制高校的なノスタルジアに加えて、小中高校教諭から大学教授まで、それに受験産業、塾、家庭教師を含む膨大な教育産業の従事者達の既得権保護運動が絡み合っているように見えてならない。知識の伝達、詰め込みは、教育技術の中でも最も単純な仕事である。もしかすると、学力の向上に熱心な教育産業従事者達は、そういうレベルの低い得意技しか持っていないのではないか。そう考えると質の低下は教師側にあるのではないかと心配になって来る。
大学教育をめぐっても、学問分野の分化が進み、いわゆる専門バカが量産されたり、学際的な発想が妨げられるという懸念から、教養教育の重要性が強調されるようになったが、新たに求められているニーズは、大局的で幅広い発想と豊な人間性を目指した、いわゆるゼネラル・アーツのはずなのに、現場では、○○学,○○論といった知識伝達型の教養教育の復活が企てられているのは困ったことだ。
今日では、2〜3センチ四方のチップの中に、2ギガバイト、すなわち百科事典の内容が全部入ってしまうほどの情報が記録でき、瞬時に引き出せるような世の中になっている。近い将来、記憶容量はさらに拡大し続けるだろうし、検索し、ディスプレイする仕組みも、より容易に、使いやすくなっていくはずだ。
そんな時代においては、細かな知識を記憶する作業はほとんど必要がない。むしろ、次代を背負う若者達に求められる能力は、それらを活用し、応用する能力、あるいは言語や数式によっては表現できない暗黙知や、感受性、観察力、洞察力、ひらめきなど、コンピュータにはマネのできない能力である。学力という言葉がこういう智恵や感性ではなく、知識を指していることは、現代の七不思議の一つといえよう。
(4) 重層的な指揮命令系統
学校教育をめぐる指揮命令系統にも大きな問題がある。学校教育を地方がどこまで主体的に行うべきか、国がどこまで関与すべきかの議論は尽くされていないように見える。
筆者は、群馬大学に在籍中、内閣府の総合規制改革推進会議の専門委員を務めていたことがあったが、会議の席上、文部科学省の次官や局長に、現場サイドから見て不合理な規制を緩和すべきではないかと問い質すと、そういう硬直的な規制はしていない、現場で自由におやり下さって結構と答えられることが多かった。しかし、幹部が弾力的な姿勢を示しても、直接、現場に接する係長達は硬直的な対応をする。これは文科省にかぎらず、いわば中央省庁のお家芸とでもいうべき悪癖であるが、各学校の上には、本省のほか、都道府県教育委員会、市町村教育委員会が乗っている。そのそれぞれが、トップから窓口に至る長い意思決定の階段をもっているのだから、現場と意思決定権者の間は気が遠くなるほど離れ、その間を流れる情報は減衰したり、雑音が混入することは避けられない。
係長、補佐,次長、課長といった長い組織の階層は、案件の精緻化に役立つこともある反面、権限と責任の所在を曖昧にし、迅速な意思決定と臨機応変な弾力的対応を困難にする。特にわが国の場合、それぞれの組織は同族集団で、同じような先入観と思い込みを共有していることが多いから、情報は常に同じ方向からのバイヤスを受ける結果になりがちである。学校教育がこれまでにあげたような外部からもたらされた矛盾に適切に対応できなかった原因は、このような内部に存在する矛盾のためといっても過言ではなかろう。
2.学校教育改善のための提言
(1)地方分権の推進
これまで述べてきたように、学校教育は大きな矛盾に直面しており、これを乗り越えることは著しく困難なように見える。しかし、あきらめる必要はない。わが国は、規制の少ない産業分野や映像、マンガ、アニメ、音楽、デザインなどのサブカルチャーにおいては、世界をリードし続けているのである。
諸悪の根源は、社会がタテ割りの集団によって構成され、国民のニーズと乖離したクニ・ムラの先入観と思いこみを指導原理としていることである。このため、あらゆる分野において、既得権益の保護や既製の価値観の順守が、社会公共の利益や個人の自由な創意より優先される、淀んだ風潮が蔓延してしまった。これは、いわば、日本病とでもいうべき病状である。
筆者は、行政の分野における日本病の克服方策として、地方分権の推進に期待している。施策が国レベルで立案され、都道府県や市町村が執行するといった体制がもたらす企画と実施の遊離を改め、現場の実情や国民のニーズが的確にフィードバックされるようになれば、様々な病も快方に向かうと考えられるからである。
教育も例外ではないだろう。否、個性と多様性が尊ばれるべき教育こそ分権的に行われる必要があるのではないか。教育委員会制度も、本来は教育行政を分権的に行うために設置されたはずである。しかし、いつの間にか、わが国の教育行政は中央集権的に行われるようになってしまった。その理由は、日教組対策に由来するといわれている。国の教育方針に真っ向から異議を唱える団体が全国組織で活動する状況下で地方に委ねたのでは各個撃破されて、結果的に全国的に教育の内容が歪むおそれがあったので、旧文部省に強い権限を与え、自民党の文教族がこれを強力に支援したという説だ。
今日、社会経済は成熟し、日教組のような団体は力を失った。にもかかわらず、文科省が補助金等をテコに中央統制を強化し、地方の教育委員会もこれに大きく影響された結果、全国的な画一化の進行、現場における弾力性の喪失などの弊害が生じ、前記、諸問題の解決を困難にしているのである。
国の介入、指導は最小限にすべきである。教育は国の基本的な施策であるという意見があるが、そんなことは当り前であって、地方にいる教育者や住民も同じ資質と能力をもった日本人なのである。だから地方に委ねたからといって軌道を大きく外れるはずはなく、同じ日本人である中央省庁が干渉しなければならないという理屈は成り立たない。
また、一部に、国の責任で行政の水準を引き上げていくべきだという意見もあるが、教育、福祉、医療などそれぞれの分野で、税財源の負担を無視してカネの力でその水準をさらに引き上げて行こうという発想が、行政の借金依存体質を加速し、国民生活を脅かす累積債務を生んでしまったのである。冷静に考えれば、いわゆるナショナル・ミニマムは、もはやほとんどの分野で実現してしまった。今後は、負担に見合った住民のニーズに委ねるべきである。
学校教育は地域の実情に応じて、様々な創意と工夫の下に、弾力的に運営される必要がある。特区制度においては、ふるさと教員制度など、地域の実態に即した運用が認められてきたが、これらはあえて特区という形をとらなくても、当然、地方の発意で実現できることがらではなかったろうか。
地方分権をめぐっては、三位一体改革などが進行中であるが、相も変らぬ中央省庁の抵抗によって、その歩みは遅々としている。しかし、財源の配分問題は別として、既に分権のお膳立ては整っているのに、そのことが十分理解されていない。
2000年の地方分権一括法の制定に伴い、都道府県の事務の約7割、市町村の事務の約4割を占めていた機関委任事務は廃止され、法定受託事務と自治事務に変わり、国と都道府県、市町村の関係は、上下・主従から、対等・平等になった。また、以前は、法律は提案した主務省が解釈権をもつという怪しげな主張が幅を利かせていたが、これは明確に否定され、地方の立場から解釈することが可能になった。いわば、この年から、地方行政は独立の度合を強めたのであるが、地方公務員はこのことに無関心だし、中央省庁はあえてこれを無視している。そして、住民の多くはその事実さえ知らない。その結果、教育を含む地方行政は、相変わらず、国の指導や助言に基づいて実施されているようである。
筆者は、職員研修など、機会のあるたびに強調しているが、地方分権は、決して天から降ってくるものではなく、個別の問題ごとに、住民の立場に立って粘り強く主張し、国との紛争を怖れず戦い取らなければ実現しないし、実現しなければ、日本病は治らないのである。教育委員会も学校も、文科省の指導に忠実過ぎるという批判があるが、中央ではなく、児童・生徒、住民の方を向き、そのニーズに即した運営を行って欲しいものである。
そういった国からの自立と並行して、これからの学校が目指すべき方向について、いくつかのポイントをあげて見よう。
(2)教育能力の向上
第一は、教師の能力の向上である。現在の教師の能力が低いといっているわけではない。今日では、あらゆる職業がその使命を実現し、顧客の需要に適切に応えるため、社会経済の変化に対応した能力の向上を求められている。教師や公務員は、ややもすれば、ぬるま湯に浸ったような雰囲気の中で、これまでと同じことを、ただ真面目に、一所懸命やればいいという風潮から抜け切れていないようだが、今日の教育が直面している矛盾と困難を解決するためには、まず、現場の一人一人の教員が最大限の能力開発に努める必要がある。また、個々の教師は当然、得手不得手があるので、現場のチームが、その弱点を補い合う必要がある。
教育技術に関しては、特に子ども達の関心をひきつけることに力を注いで欲しい。子どもに限ったことではないが、受身の姿勢では勉学に身が入るはずはない。情報化が進展する中で、テレビやネットがもたらす魅力に対抗して行くことは容易でないが、工夫を凝らしていただきたい。プロの皆様方なので、その点にぬかりはないと信じるが、学校長も教委も一人一人の教師の大胆な試みを規制ではなく応援して、活気のある学校を育てていって欲しい。
設備やソフトの制約があるかも知れないが、できるだけ情報技術を活用して欲しい。情報化の進展は、今後も避けられない動向である。パソコンや携帯電話は様々な悪影響を及ぼす反面、これまで以上に重要な役割を果たして行くはずである。その濫用に眉をひそめるのではなく、率先して活用し、児童・生徒の興味と信頼を獲得すべきである。その上で、彼等にネット利用にかかわる礼儀や心得といった、いわゆるネチケットを教えていくことも、学校の重要な機能になるだろう。
(3)開かれた学校の形成
もう一つの大事な方向は、地域において開かれた学校の形成である。家庭教育、社会教育が十分に機能しないのなら、学校が中心となってその役割を果たしていくほかはあるまい。群馬県では、筆者が座長になって少子化対策に対応する子育てヴィジョンをまとめたが、その中で、大きな柱として、「子育ての社会化」を提唱している。子どもは社会の宝といわれながら、虐待やネグレクトに遭ったり、犯罪に巻き込まれる者が少なくないが、その相当部分が母子・父子家庭等で発生している。こういういわばハンディキャップを負った家庭における子育ては、社会が積極的にバックアップする必要があり、このような形で、セフティーネットが形成されれば、若者達は安心して、子どもを産み育てることができるようになるからだ。
これからの学校は、社会における子育ての中核的存在の一つになって欲しいものである。勿論、教育以外の仕事まで教師に担当させようというのではない。地域の様々な方々が、家庭教育や社会教育の補完を含む子育てに携わるため、学校を一つの核とし、学校教育と相補完しながら行えないだろうかいうことである。
これまでも学校は、災害の際の避難場所やイベント等に際して、地域の中心的機能を果たして来た。その役割をさらに拡大して、地域の知的活動の中心的存在になっていただけないだろうか。今日、高齢者や主婦層はその能力をもてあましている傾向にあるが、2007年からはさらに団塊の世代が職業生活を引退し、家庭や地域に戻る。その中には、教諭のOB,OGも少なからず含まれているはずである。その知恵と経験、エネルギーを活用して、社会、地域ぐるみで子育て、子どもの社会教育という大事な仕事を果たしていく、そのために、学校が中核的役割を果たせないだろうかと思う。
こういう試みは、既に各地で実施に移されていると思うが、近年、校内や通学途上において、児童が被害者になる事件が頻発したため、閉鎖的な方向に逆戻りしているという話も聞く。そうではなく、むしろ開かれた学校として、地域ぐるみで安全を確保していって欲しい。
また、中学、高校においては、生徒の将来の進路指導も学校、教師の本来的な役割である。わが国の教育においては、それぞれの教科、学問分野が抽象的な知識の習得に偏っており、それらが将来の職業にどのように結びついていくかについての情報の提供が不足していることも、児童・生徒が学習に興味を失う一因になっているようだが、様々な社会経験を持つ方々と学校との結びつきが強まれば、こういう面においても、大きなメリットが生じるだろう。
行き過ぎた受験競争については本人と両親の選択の問題でもあるので、過重な関与には馴染まないが、開かれた学校の形成による、労働市場を含む社会経済に関する適切な情報の提供と両親の教育への参加により、事態が改善されることが期待される。幸か不幸か、これからは増税と年金の目減りが家計を直撃し、子どもの教育に際しても、費用対効果を検討しなければならない時代を迎えるだろう。嬉しいことではないが学校教育復権のチャンスでもある。
(4)学校長のリーダーシップの発揮
教育者としてのレベルアップと地域に開かれた学校づくりを求めれば、教師のオーバーワークを招くのではないかとの反論に会いそうである。筆者もそれは懸念しないではない。しかし、現役の教師に仕事の内容を聞くと、教育以外の雑用に追われているとの答えを聞くことが多い。その内容がどのようなものか、筆者には分からないが、一般の行政機関にも様々な繁文縟礼が多い。報告のための報告、万一の場合を想定した責任の回避、過度の整合性の確保といった目的の雑用が多いとすれば、合理化の余地は少なくないのではなかろうか。なるべく権限を現場に下ろすとともに、衆知を集めて、合理化策を検討して見ることが必要だろう。
効率的、効果的な事業運営のためには、学校長のリーダーシップの強化が必要である。一般に、組織においては、その長に強い権限を与えた方がうまくいく。年功等に囚われず、適材を学校長に任命し、一定期間自由に運営させ、任期ごとに、減点法ではなく、前向きにどのくらい実績を上げたかを、適切に評価するといったサイクルを導入することが望まれる。
この点に関して、職員会議の在り方にも懸念を示して置く。その実際の運営は学校ごとに千差万別だろうから、一刀両断的な評論は避けたいが、一般に構成員が平等な一票をもち発言に責任を伴わない合議体では、無責任な主張や部分を見て全体を見ない言説が横行し、無益な議論に時間を空費することが多い。そうなると、良識をもち、他に活躍の機会がある者が議論への参加を避け、結果的に悪貨が良貨を駆逐するようになり、意思決定の質が低下するものである。その典型は大学の教授会であるが、小中高校でも、このような悪癖が横行していないことを祈っている。
最良の指揮官は正しい命令をする指揮官、次善の指揮官は誤った命令をする指揮官、最悪の指揮官は命令をしない指揮官ということわざもある。右顧左眄して命令しようとしない者や上部機関の意向によって指示の内容がくるくると変わるリーダーは最悪のパターンである。
学校教育は、今大きな課題や矛盾に悩まされている。その現実に直面し、日夜ご努力されている教育関係者に対し、傍目とはいいながら、いささか筆が走り過ぎた嫌いがないわけではないが、その改善と改革のため、この小文が少しでもお役に立てれば幸せである。
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